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著名人のお墓

観音堂全景 観音堂には、諸芸上達の観音様のご縁から当山には古くから噺家の墓が多く、「笑福亭松鶴 初代〜七代」「二代目・三代目三遊亭円」「慶州李氏公善洪」「二代目 立花家千橘」「二代目〜四代目 桂文三」「二代目 桂木鶴・岩太郎」「三代目 桂文吾」「桂陀羅助碑」「初代 鶴家団十郎」「山崎長之輔碑」「栗柯亭木端」、 紅葉を詠んだ歌碑や、「打拳塚」「筆塚」「殉国忠魂之碑」自由民権運動の「大坂事件の碑」など著名な方々が安穏をもとめ当山に建立されてきました。


二代目林家木鶴・岩太郎碑、三代目桂文吾碑、二代目桂文三墓

二代目林家木鶴・岩太郎碑、三代目桂文吾碑、二代目桂文三墓(右:二代目林家木鶴・岩太郎碑)
二代目林家木鶴・岩太郎他については、本名・没年等未詳。二代目木鶴は幕末から明治初年にかけて活躍した人で、天満天神裏門にあった林家席の席主であったことがわかっている。また、二代目桂文三はこの木鶴の養子となり、一時三代目林家木鶴を名乗っている。

(中:三代目桂文吾碑)(本名・生年未詳)
明治19年5月17日没。『落語系図』に「初代文枝門人。後に延玉となる。俗に山寺と云う。」とある。門人に四代目文吾、三代目文三、三代目文都らがいる。

(左:二代目桂文三墓)(本名未詳)万延1年〜明治24年5月5日 32歳
初め三代目桂文吾門人で二代目小文吾。明治17年二代目桂文三を襲名。のち三代目林家木鶴を名乗るが、再び文三に戻った。妻女は下座三味線のおさん。没年について、新聞等では7日となっているが、墓碑銘の5日が正しいと思われる。

笑福亭松鶴代々の墓

笑福亭松鶴代々の墓三代目笑福亭松鶴(本名 武田亀太郎)
弘化2年〜明治42年3月30日 65歳
二代目立川三光、初代桂慶冶の門に入るが、のち二代目笑福亭松鶴(のちの圓笑)に招かれて三代目笑福亭松喬となり、明治11年三代目松鶴を襲名した。明治37年には師の圓笑と同様に講釈師となり、竹山人と称する。

四代目笑福亭松鶴(本名 森村米吉)
明治2年〜昭和17年8月20日 74歳
三代目松鶴門に入り、三代目松竹を名乗る。萬歳、枝鶴を経て明治40年四代目松鶴を襲名した。
大正14年に引退、昭和10年には弟子の二代目枝鶴に松鶴(五代目)の名を譲り、自らは松翁を名乗った。

五代目笑福亭松鶴(本名 竹内梅之助)
明治17年9月5日〜昭和25年7月22日 67歳
明治37年に当時枝鶴であった四代目松鶴に入門、光鶴を名乗った。大正7年に二代目枝鶴を、昭和10年に五代目松鶴を襲名した。妻女あさのは林家正楽の娘にあたる。

六代目笑福亭松鶴(本名 竹内日出男)
大正7年8月17日〜昭和61年9月5日 69歳
五代目松鶴の二男として生まれる。母方の祖父も落語家の林家正楽。昭和21年、初代笑福亭松之助で初舞台。23年に三代目光鶴となり、28年四代目枝鶴を襲名。37年六代目松鶴を襲名した。

二代目立花家千橘之墓

二代目立花家千橘之墓二代目立花家千橘(本名 中村常次郎)
明治6年〜大正11年4月14日
二代目三遊亭圓橘門人。
明治30年頃大阪へ来て居着く。音曲師。
 
 
 
 
 
 
 
 

三代目三遊亭圓馬之碑

三代目三遊亭圓馬之碑三代目三遊亭圓馬(本名 橋本卯三郎)
明治15年11月3日〜昭和20年1月13日 64歳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

翁塚(二代目三遊亭圓馬=圓翁の碑)

翁塚(二代目三遊亭圓馬=圓翁の碑)二代目三遊亭圓馬(本名 竹沢斧太郎)
安政1年〜大正7年12月18日 65歳
大正7年、圓馬の名を橋本川柳(三代目圓馬)に譲り圓翁と改名した。
初代橘の圓は実弟。また、下座の名人とうたわれたおさんは妻女である。
俗に「空堀の圓馬」と言う。
 
 
 
 
 
 
 

おさんの碑

おさんの碑三味線の胴をかたどった碑
下座三味線の名人といわれたおさんは、笑福亭鶴八の娘で二代目桂文三と結婚して寄席の下座となり、文三の死後、二代目三遊亭圓馬と再婚した。

碑文
「三味の皮たゝきすこして糸が切つくいとまなくはるさらふなり
    妻 さん」 
 
 
 
 
 

六十六部廻国供養塔

六十六部廻国供養塔六十六部廻国供養塔(大阪市指定文化財)
江戸時代には、人々が自由に移動することは禁止されていた。しかし、行者(ぎょうじゃ)と呼ばれる人達は、大きな寺院が支配する会所(かいしょ)という組織に入ることで、ある程度自由に旅行することができた。人々は行者に頼んで全国の寺院などの霊場を巡礼してもらい、様々な願いを託して自分たちの代わりに祈ってもらった。 六十六部廻国巡礼(ろくじゅうろくぶかいこくじゅんれい)は、全国の六十六ヶ国の霊場をまわり、お経を納めたりすることであり、1700年代以降、特によく行われた。この巡礼をする行者は六十六部行者などと呼ばれていた。巡礼が無事終わると、行者に巡礼を頼んだ人が記念の石塔を建てることもよくあった。この石塔はそのひとつで宝永八年(1711年)に建てられたものである。

「大阪事件」犠牲者の慰霊碑

「大阪事件」犠牲者の慰霊碑慰霊碑説明文より・・・・・・・・・・・
『自由民権運動退潮期の1885(明治18)年、自由党急進派であった大井憲太郎とその同志小林樟雄、磯山清兵衛らがはかって、自由党壮士が朝鮮にのりこみ、「朝鮮改革」を行って清国から朝鮮を独立させ、外患をおこして日本人民の愛国心を喚起し、民権運動を勝利に導こうと計画しました。
そのため爆発物を製造し、まさに朝鮮に渡る寸前発覚し、大阪・長崎などで139名が逮捕されました。
これが世にいう「大阪事件」であり、その歴史的評価は、現在多くの議論があります。
逮捕された壮士のうち、福島県出身の加藤宗七は送検前に、群馬県の山崎重五郎、長野県の土屋市助、茨城県の川北虎之助が予審中に病死しました。
彼ら4人を顕彰するため、死後まもなくの1887(明治20)年、有志により慰霊碑が現在の天王寺区逢坂1丁目の天神山に建てられ、盛大に慰霊祭が行われました。
しかし、その後倒壊して安井天神の片隅に放置されていたのを、明治末ごろ、これを見かねた有志の奔走と通称もみじ寺で知られる壽法寺の住職の好意で、再建されました。
ところが再び近年、道路計画のため、慰霊碑は倒れたままになっていましたが、今年の春、これを壽法寺に建てていただくことができ、本日、「大阪事件」の犠牲者の関係のご遺族とともに「追悼のつどい」を開催しました。    1995年11月23日「大阪事件」百十周年の日に   大阪民衆史研究会』